武士(サムライ)たちの美学は虚像だった?

最近読んだ本で、ちょっと衝撃、ダメージを受けた本がありました。
戦場の精神史/佐伯真一著(NHK出版)』で、2004年に発行されたものです。

冒頭から刺激的な事例が登場します。

舞台は元暦元年、源平合戦の行き場を決める戦いだった一ノ谷合戦でのこと。
平家の侍大将越中前司盛俊(えっちゅうぜんじもりとし)と源氏側の武士猪俣則綱(いのまたのりつな)の戦いの場面、そして、手柄を横取りしようとする則綱の親戚の武士の人見四郎(ひとみしろう)が描かれていました。

その内容がかなりエグいんです。

盛俊は則綱の弁舌に乗せられて討たれるのですが、その手柄を人見四郎が横取りしようとし、則綱はさらにその上をいくというものです。
これがかなり生々しい。

この本は、こうした「だまし討ち」の事例をいくつも取り上げて、武士道の美談の虚像を明らかにしようとするものでした。
この時代ではこうした「だまし討ち」が肯定されていたようです。
まさに「目的を達成するためなら手段を選ばない」様相です。

そりゃあそうでしょうね。
生きるか死ぬかの修羅場で武士道うんぬんいっている場合ではないでしょう。
映画やゲームじゃないんですから。

そもそも戦争に美学は必要でしょうか。

クラウゼヴィッツは、戦争論の中で戦争についてこう定義しています。

戦争とはつまるところ拡大された決闘以外の何ものでもない。
<中略>
いかなる格闘者も相手に物理的暴力をふるって完全に自分の意思を押しつけようとする。その当面の目的は、敵を屈服させ、以後に起こされるかもしれない抵抗を不可能ならしめることである。つまり戦争とは、敵をしてわれらの意思に屈服せしめるための暴力行為のことである。
暴力は、敵の暴力に対抗するために、さまざまな技術や学問を通して発明されたものによって武装する。もっとも暴力は、国際法上の道義という名目の下に自己制約を伴わないわけではないが、それはほとんどとるに足らないものであって、暴力の行為を阻止する重大な障害とはなりはしない。

また、こうとも書かれています。

戦争とはそもそも危険なものであって、これを論ずるのに婦女子の情をもってするほど恐るべき誤りはないからである。
<中略>
いま仮に相闘う両者のうち、一方が何者をも躊躇することなく、いかなる流血にもひるむことなくこの暴力を行使するとし、他方が優柔不断でよくこれをなし得ないとすれば、必ずや前者が優位に立つにちがいない。したがって、後者もまた前者に暴力をもって対抗せざるを得ないこととなり、その結果両者の暴力行為は交互に増長して際限のないものとなる。もしそこに何らかの限界があるとすれば、それは両者の間にある力の均衡によってのみもたらされるものにすぎない。

洋の東西問わず、戦争の本質は同じようなものでしょう。

もし戦争に負ければ、自分や自分の属する集団が甚大な被害を被ることは想像に難くないはずです。
しかも、「抵抗を不可能ならしめること」とは、未来永劫反撃のチャンスを断たれるということです。
となると、絶対に負けられないわけで、何が何でも勝たなければなりません。
自分の生死もそうですが、自分のコミュニティを完全に破壊されるのですからこれ以上のダメージは無いわけです。
暴力行為の限界が「両者の間にある力の均衡によってもたらされる」のであれば、その均衡を破るために「だまし討ち」なども必要になるでしょう。

ここで、少し視点を変えて「なぜ戦争をするのか」から「美学」を考えてみたいと思います。

前述のクラウゼヴィッツの定義では、戦争の目的は相手に意思を押し付けることになります。
では、集団を束ねる長が「戦争するぞ」と決める時、その真の目的はどこにあるのだろうかと思うわけです。
おそらく「私欲」でしょう。
「長」であり続けたいという「私欲」
「経済を活性化させたい」という「私欲」
「より多くを支配したい」という「私欲」
こうしたものを満たすことで、「自由であり続けたい」と考えているのかもしれません(ボクはこうして手に入れる自由は真の自由とは思いませんが)。
しかし、長である人の私欲をならべただけでは大勢の人が動く動機にはならないでしょうから、それなりの別の理由が必要になりそうです。

冒頭で紹介した『戦場の精神史』によると、戦には、大義にもとづく「公戦」と私欲にもとずく「私戦」があったようです。

「公戦」は公式な命令のもとに行われたもので、大義を貫くために敵を倒すものであり、正義の名のもとに悪を倒すためならは何でもありになりそうです。
この場合、相手を完全に見下していますから、魔物か獣のようにみたてて容赦なくやるでしょう。
そこまでしても、悪に対して果敢に立ち向かった勇気ある大将として見てもらえます。

これに対して「私戦」の場合は、まわりの目を気にして多少加減したものになりそうです。
領土の拡大や利害の対立など、当事者だけに関するものですから、そこで何でもアリの戦い方をすれば内外から非難されるでしょう。
敵の大将以外には温情を示して人びとの支持を得ようとするかもしれません。
徹底的にやりたい当事者にとって「私戦」は”やりずらい”わけです。

やはり、人を動かすには大義を掲げたほうが都合が良いようですね。「大義のために」みたいな美学を打ち立てて。

ここまでつらつら書いてきましたが、戦争において「美学」は少なくとも争いをしかける側には欠かせないもののようです。
私欲を隠して人を動かそうとするときや、戦いを美化して非難を最小限におさえるためのに便利に使われています。特に他者の目を意識するなら必要なのでしょう。
あとは、自身の行為を正当化するためだったり、自己満足のためだったりでしょうか。
武士道も平和な時代の後世の人が、指導者としての武士の地位を勘案して作ったもとのこと。
「綺麗な薔薇には刺がある」のことわざがあります。
「美」を掲げて争いを仕掛けようとする人には気を付けたいものです。

今の日本では国をあげての戦争はありませんが、個人や集団・組織間の争い事は日常茶飯事です。
暴力を伴うもの、暴力の代わりに理論で攻撃しようとするもの。
あたなのまわりにも居ませんか。
「仲間のため」「社会のため」「組織のため」とかなんとか言って意思を押し付けてくるような人が。

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